人生は芸術だ 2010/12
第41回人生は芸術だ 「二つのF(フットボール&ファッション)」
投稿日時:2010/12/16(木) 21:21
二つのF(フットボール&ファッション)
子供の頃の環境がそういう素地を作ったのか?
私は誰が着ても様になる紺や黒の服が嫌いだ。特に秋口から冬まで(10月~2月末)の間の空がどんよりと曇った日は自分が身に付ける洋服は明るい色を好んで着ている。第37回のブログ(グレーの奥深さ)でも記したが、それは呉服商を営む長男として生を受け、子供の頃から多くの色を観る機会があったからなのかもしれない。最も多感な時に、後に一世を風靡する衝撃的な出会いがあった。ファッションへのめざめは著名なデザイナー、H.Nとの一緒の時間を過ごした中学時代にある。彼の3才年上の兄は、I.V.Y(アイビー)の全盛期、VANSHOPに勤務していた。東京銀座でみゆき族なるアイビーファッションが流行、石津謙介、くろすとしゆき氏らがアメリカの学生のライフスタイルを紹介した。彼の兄は、今から45年も前にバスケットの付いた自転車に颯爽と乗っていた。春秋は紺ブレ、チノパン、レジメンタルタイにローファー、夏はバミューダ、Tシャツにマドラスチェツクのダウンシャツ、冬にはPコート、ツィードジャケットにビーンブーツ、本当にカッコ良く憧れだった。思い出しても今と全く遜色ない洋服を、身に纏っていた。そんな影響で、高校時代にはメンズクラブを毎月購入、クラスの洋服好きのグループとファッション談議に花を咲かせた。
しかし、自分なりに基準があって、あいつがこの洋服を着たら終わりだと思い同じ洋服を着ることは二度となかった。
私はサッカーでもそうなのだが、人より先に何か見つけることや、色や形をどう組み合わせたらバランスが良いとか、簡単なものより難しい方が面白そうだという思いは、今風にいえばレイヤードにこだわりを持って過ごしたからだと思っている。T.P.Oさえわきまえれば、今はどんな洋服を着てもおかしくない時代だ。無限のバリエーションができるファッションはサッカーのプレー同様、何を着るかではなく、何を選んで着るかだと思っている。私のファッション哲学も常に自分のスタイルと基準を持ち、立ち位置を確認しながら若者の見本となれるような物を身に付けて行きたいと思っている。
ファッション同様、個性を確立して自分が面白い人生を送っていれば、ポロッと出て来た副産物としてのフットボールはきっと魅力あるものになっていくだろうと思っている!!

スーツやジャケットに付けるピンバッチとラベルピン
知人に頂いたものが多い。左上のトラサルディーの
ラペンピン、隣のテディベアのピンバッチがお気に入り
第40回人生は芸術だ 「sufficient(必要十分)」
投稿日時:2010/12/07(火) 21:21
sufficient(必要十分)
12月5日(日)に静岡県藤枝市総合運動公園で行われた第32回全日本女子サッカー選手権大会1回戦、静岡産業大学ボニータとの対戦は1VS2の逆転負けを喫し敗退した。
4年ぶり9回目の出場となったが大会経験者が一人もなく通常行われている高校のゲーム(60~70分)より30分長いフルタイム90分でのゲーム運びに難があり、キャリア(経験)の無さを露呈した。特に後半20分過ぎの足が止まった状態での2失点は今後のチーム作りに大きな課題を残した。大会当日の5日は前日の大荒れの天候とは一変、好天に恵まれ大会運営も実に手際よく、サッカーどころ藤枝をピッチ状況が示していた。前日のジュビロ磐田取締役の辻鎮雄氏のグラウンド(突然お願いしたのだが、こころよく手配していただいた)手配やマッチコミッサリーを務めた岩田要司氏、藤枝順心OG(全国優勝時)の父、杉本氏等々、静岡県では多くの同窓生が活躍している。短い時間だったが元気な顔をみられ本当にうれしかった。12月のこの時期は、学校では後期中間考査の真っ最中であり、ゲーム終了後関係各位に丁寧な挨拶も出来ないままの慌しい帰仙となった。
いつの時でも敗戦直後のバス移動は感情が交差し、重苦しいものだ。選手が眠りに付く中、頭を整理しゲームを回想、分析する。私が目標としているエレガントでファンタジーなフットボールとは端的にいえば「ポゼッションを可能とするための必要十分な要素がある」。そして、それは何項目かに分かれている。一項目欠けても実現不可能なものだ、今更ながら理論のみでなく行動で示す実戦の大切さ、重要さを痛感している。仙台着は午後11時、そして明日は中間考査。だがそれも今後高いレベルにチャレンジしていくためにはどうしても避けられない劣悪な環境の克服、メンタル強化(精神的な強さ)というのは必須条件でもある。
12月の仙台は急激な温度差で、とてもCOATなしではグラウンドにはいられない。私が好んで袖を通してきたコートはダッフル、トレンチ、Pコートといったミリタリーに関するコートだ。言うなれば、戦場で使用され命のやり取りをする究極の現場で働いてきたものばかりだ。特に寒い日は、ベルギーアントワープ近郊の名に由来するダッフルと名のついたコートを身にまとう。安価でクッション性が高く、ファスチャン織りの目の紡がれたコート。当初は漁場でよく使用され、防寒性に優れ多少の雨や霧、水しぶきを浴びてもすぐにしみ込まない。そして、グローブをつけかじかんだ手でも安易に取り外しができる、トグルとループのフロント、フタもなく大ぶりなポケット、そこには北海の鉄の船がきしんで不気味な音を立てる時化の海と直に向き合い仕事の場としてきたダッフルコートの歴史がある。決して贅沢な作りでも高機能でもない武骨なコートだが、あらゆる状況すべてを包み込んで暖められる様に作ってあるダッフルコートの実力こそ、聖和が目指す繋ぐフットボールの原点なのかもしれない。
価値観すら、移ろいやすい現代にあって聖和が目標とするフットボールは1985年創部の過去から未来へ脈々と繋がってゆくものでなければならない。

1863年には南極大陸進出
英国海軍に正式記録がある
グローバーオール(gloverall)モンティ(MONTY)の復刻COAT
多彩な物語を持つダッフルコート。ダッフルに袖を通した男が過ごした時間と場所、その人物の行動は人々の記憶に多くの感動を生んだ。筆頭は、イギリス陸軍元帥バーナード.モンゴメリーだ。第二次世界大戦初期にモンティはフランス北部のダンケルクで撤退作戦を指揮する。その時現地で漁師からもらったダッフルコートを身にまとい最後の一兵が撤退するまで、たった一人で現地に留まっていた。「ダルケルクの悲劇」として語り継がれ、将軍という最高地位にあるものが、軍規を逸脱してまで現地の人の厚意を汲んで粗末なダッフルコートを着て最後まで戦地に留まった行動が、人々の記憶に深く刻まれることになったのだろう。
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